幸福の黄色いハンカチ もう頬づえはつかない 疑惑

木村家の人々 TOMORROW/明日 噛む女

東京夜曲 青い花火 ミレニアムベストランジェリスト

日本ジュエリーベストドレッサー

1977年 【幸福の黄色いハンカチ】(11部門受賞)

「・・・略・・・花のキネマ旬報助演女優賞なんていうのをもらってしまって、なんだか恥ずかしくしています。=ジュショウオメデトウ・スタッフトトモニココロカラヨロコンデマス=と、山田監督から祝電が届きました。
母さんに、生まれて初めて受け取ったこの祝電を「結婚式じゃなくても祝電来た!」などどいってみせると、私がこの仕事をするようになってから、ずーとつらがっていた母さんが、「かおりちゃん・・・・・女優さんになってよかったね」とひどく喜んでくれました。父さんは、なぜか私よりももっと照れながら、「
役者・桃井かおりって名刺作ってやろうか」などと言いました。
長い間、桃井
さん家の恥ずかしい子だったらしい私も、今日はどうやら、桃井さん家の自慢のお嬢ちゃんになったようなのです。
恥ずかしながら賞をいただくというのは、本当にいいものです。
山田監督に感謝しています。女房のように(?)つきそってくれたスタッフの皆さん、わがままを許してくれた健さん、武田さん、キャストの皆さん。皆々様に感謝しています。どうもありがとう。
(excerpted from キネマ旬報 78/2月号)

-キネマ旬報の想い出-
自分の親に見て貰える最初の映画という感じで、それまでの私の趣味でやっているような芝居じゃなかったし、いただいた時は正直ホッとした。キネ旬はずっと購読していてバックナンバーを揃えていた雑誌だったから、それだけに思わず「バンザーイ!」って叫んだほど。授賞式に臙脂色のワンピースを着ていったのも、よく覚えている。(excerpted from キネマ旬報 94/7月号)

1979年 【もう頬づえはつかない】(8部門受賞)

「受賞したという知らせは、テレビの本番が終わったあと、”東さんが教えてくれた”と母が連絡してくれました。母がうれしかったみたい。あたし、この前の助演女優賞で2回目なんですけど・・・・・・うん、うれしい」桃井かおりさんは素直にそう語る。
・・・略・・・「あたし、去年は忙しかったのね。2月神様のくれた赤ん坊があったしテレビドラマの祭りが終わった時もあったし男はつらいよ・翔んでる寅次郎やコンサートもあった。それで”寅さん”の時だったかしら、もう頬づえはつかないの原作を持ってきた人が居て、それにサインを頼まれたのね。それで原作を知って、読んで、ああ、これをやれる女優さんはうらやましいな、と思った。
・・・略・・・こういうおいしい話は、もう、あたしのところには来ないんだ、と思うと、さびしかった。だんだん自分が営業的になっていくみたいだし、最初のころ自分が思っていた素敵な人たちのイメージが、どんどん自分のキャラクターに合わなくなっていくみたいで、不安だったの。それだったらボロが出ないうちに引退したい、なんてことも考えたりした・・・・・。」
「事務所の人に言ったのね。”あたし、有名になったおかげで、こういう話来なくなったじゃない”って。そしたら、”東さんからアプローチはあった。でもスケジュール的にどうしても無理でことわった。また次の機会にしよう”とマネージャーが言うの。
サードを観て、東さん好きだったし・・・・絶対、組みたいと思った。だから東さんと会わせてと頼んだのね。」
スケジュール的には、どんなことになっても泣きごとを言わないからとがんばって、ついにまり子の役を自分のものにした。(excerpted from キネマ旬報 80/2月号)

-キネマ旬報の想い出-
あの年で女優を辞めようと思いつめていた時期だったの。八ヶ岳に篭っていたしね。もう頬づえはつかないは、だからしっかり自分を映しておこうと必死だったし、神様のくれた赤ん坊はそんな思いを眺めているような映画だった。両方とも特別な思い入れがあったから、それだけに切実に賞は欲しかったです。少し褒められて終わりたかったし、でも辞めなかったけど。(excerpted from キネマ旬報 94/7月号)


1982年 疑惑(7部門受賞)

桃井の82年は”クマコ”で始まり、クマコで有終の美を飾ったと言っても過言ではあるまい。「見ている人に、いやな女と言われるほど成功という役」だけに出演すべきか否か悩んだ。が「年齢的(30歳)にも、あえてプレッシャーの多い役を選ぶ転機の年。ここは役者の浅知恵であれこれ役を作ったりせず監督の指示通り一生懸命やってみようと・・・」と初心にかえったあたりは桃井の非凡なところ。「だからこういう得(賞)が最後に飛び込んでくるとは考えてもみなかったの。うれしくって昨日も一昨日も乾杯して目がハレちゃって・・・この人にしてはめずらしく「うれしい!」を連発した。(excerpted from 報知新聞 82/12/8)


1988年 【木村家の人々】(6部門受賞) 【TOMORROW/明日】(7部門受賞)【噛む女】(2部門受賞)

この三作品でまったく違った女を演じ、器用さ、力量、バイタリティーを見せつけた桃井かおり。「泣きそうです。やっと普通の役をやれるようになって、コツコツやろうって決めたばかりだったから、こういうことには縁がなくなると思っていたのよ」と桃井の喜びは大変なもの。『もう頬づえはつかない』に代表される、あのけだるい”かおり節”からの脱皮を図って悶々としたこの五年間。そして「初心者に戻ってステキだと思える役をやろう。どんな役でもいい」とある意味で開き直って挑んだ。「この賞で監督たちがあいつで良かったんだって思ってくれればうれしい」一皮むけた桃井の今後が楽しみだ。(excerpted from サンケイスポーツ 89/1/19)

「今の気分?泣きそうよ」受賞もちゃかすいつもの桃井節に思えた。だが、照れくさそうにうつむきながら、ヒトミはみるみる潤んだ。「10年前にもらった賞とはわけが違うから、あのころの”悪臭”を放つような役はもうやる気ないし。ここ7年ぐらい、正直、調子良くなかったし、コツコツ”普通の女優さん”やろうと思った矢先だから。ホント、こういう賞にはもう縁がないと思っていた。うれしい」。{つっぱり}{気だるさ}の存在感だけで映画賞を独占、賞とり女優と呼ばれたちょうど10年前をつぶやくように振り返った。桃井特有の”くさみ”を抜き、演技だけで勝負に出た年でもあった。受賞対象となった三作の役柄はいずれも平凡な主婦。それまでの「攻め」から「受け」の柔軟さが選考委員をうならせた。現代、戦時中と作品ごとに背景になじむ意外な器用さも光った。「路線変更」について本人は言う。「もう”ハヤリもの”ではいられないし、いつまでもそれやってたらリボン着けたオバチャンになってみっともない。やっぱり時間はうまく食べていかなくては。そう思ったら企画の方から寄ってきたの。」(excerpted from 日刊スポーツ 89/1/19)

主演女優賞の桃井かおりは受賞の知らせに「泣きそうです」目には本当に、涙があふれそうになっていた。こつこつ普通の役をやっていこうと決めたばかり。こういうこと(賞)には縁がなくなるぞ、と覚悟を決めた矢先だった」と言う。受賞対象になった三作品では、それぞれ違った味わいをみせた。ブルーリボン賞では77年に助演女優賞(『幸福の黄色いハンカチ』)、79年に主演女優賞(『もう頬づえはつかない』ほか)を受けている彼女だが、つっぱり女優の代名詞のようにいわれた当時からグンと芸域が広がり、深みを増した。「20代は自分の感覚と知恵だけでやろうとしたから、何をやっても同じだった。こんなに長く(女優を)やってる予定じゃなかったから、自分を売り飛ばしすぎちゃった。引退も考えたけど、この仕事好きだなと分かって、普通のおばさん女優になろうって決めたの」”新装開店”した新しい”女優・桃井かおり”に記者たちがエールを送った主演女優賞だった。(excerpted from 報知新聞 89/1/19)

「泣きそうなの」主演女優賞の桃井かおりは涙をぐーっとこらえた。シラ気派の代表だった彼女の変貌ぶり。「本当にもらえてうれしい。よかった」と何度もいい続けた。三十歳の時「女優を閉店しようと思ったの。でもこの仕事、かなり好きだった」で、個性売りものの女優から、普通の女優になることに決めた。「正直いって賞なんか縁がないと思っていたの。とにかくこつこつやろう。今までの悪臭を放つような役ではなく普通の役をね」そんな矢先の主演女優賞。「黒木和雄監督に”普通の女優で”と声をかけられ、神代辰巳監督が”やろうよ”といってくれ、若い滝田洋二郎監督も指名してくれた。みなさん、あいつを使って良かった、とこの受賞で思ってくれたと思うの。だからとてもうれしいんです」。(excerpted from デイリースポーツ 89/1/19)

-キネマ旬報の想い出-
88年に主演女優賞を受賞した時は、マネージャーに「助演女優賞のじゃないの!?」って聞き返したほど。だって噛む女はともかく、木村家の人々は実質的に脇役だったし、TOMORROW/明日は群像劇の中のひとりでしょ。事務所サイドでは最初に出演交渉があった時には断っていたんだけど、私が偶然事務所に置いてあった脚本を読んで「木村家、やる!」って言って出演したの。TOMORROW/明日わざわざ監督が撮影スケジュールを遅らせてくれて、参加できた作品だったから、この時もうれしかった。ちょうど女優として行き詰った節目ごとに、キネ旬の賞を貰っていて有難いです。・・・略・・・ベテランでも新人監督の作品でも、面白いものはまだまだあると思うし、私も新しい気分で映画と向かいあって、そのうち4度目のキネ旬の賞を狙います(笑)(excerpted from キネマ旬報 94/7月号)


1997年 【東京夜曲】(7部門受賞)

一昨年の暮れには「田中絹代賞が欲しい」とアピールしていた。昨年『東京夜曲』に出演して「さらにいい女優になれるような、生まれ変わった気分だった」と本気で新人賞を狙っていた。フタを開けてみれば女優主演賞だったが、桃井は「ありがと~。ほんっとにうれしいのよ」と無邪気にはしゃいだ。女優として数々の修羅場をくぐり抜けてきたが「自分のネタ、腕力が使えなくて、頭が空っぽだった」と言うほど、市川準監督の現場には打ちのめされた。「人を好きになったことはあるけど、信じたことはなかった。でも、肌触りというか、温度を撮る監督で、運命を預けてしまった。大変な作業だったけど、十分幸せだったわ」すべてをゆだねられる信頼感を持てたことで結果を出した。「どこを見ても私じゃない。恥ずかしくなくて、まるで自分が出てないみたいで、思わず”市川さん素敵”って言っちゃった。役者としての財産ね」と満足の仕上がりに言葉もはずむ。不倫であるはずの長塚京三とのラブシーンも嫌らしさを感じさせず、純粋で美しい描写が際立った。「お尻とかおっぱいが丸くなったのよ。ヒロインっぽいのやったことなくて、使ってないから純粋なものが残っていたのね」冗談ともとれる発言にも、自信がみなぎっている。二十五年のキャリアを積みながら、さらなる境地を開き「今までの私なんて、惜しくもなんともない」とこともなげに言う。「立派な人間でなくてもいいし、見たいと思う映画に出たい」とさらなる欲も。原田芳雄とは映画賞の舞台で初めて並び立つ。「優作が悔しがっているだろうなあ」とあらためて”戦友”の夭逝を悼んでいた。(excerpted from スポーツニッポン 98/1/17)

「東京夜曲」で新境地を出した桃井かおりさん。「市川準監督には主演でも助演でもいいから出してとお願いしていたの。この映画に合う年齢になったけど、本当に年くってよかった」と桃井流表現で手放しで喜んでいた。(excerpted from 毎日新聞 98/1/17)

ともに三十年近いキャリアの中で何度となく映画賞を獲得。共演作もあるが同じ映画賞の舞台に立つのは初めて。原田は「凄くこそばゆい感じだね」と照れ笑い。桃井は「若い時から相談して、助けてもらって、ずっと仲間でやってきたから、血がつながりそうなくらい。頑張ったねぇって、お互いが言い合えるのは素敵だよね」と満面の笑みで勝利の美酒に酔いしれた。・・・優作さんに思いをはせ、喜びを分かち合うことも忘れない。・・・原田は「作品っていうのは、本人より長生きしていくもの。不在という実感がいまだにわかない」と唇をかんだ。桃井も「私は四十歳を過ぎてから出ることができた映画で賞をもらえた。生きていれば、こんなにいいこともあるのね。年をとれなくてかわいそう」と涙ぐむ一幕も。それでも「優作は悔しがっているだろうな。生きてる者の勝ちだもんね」と精一杯明るく振舞い、天国の盟友にグラスを掲げていた。(excerpted from スポーツニッポン 98/2/10)

主演女優賞の桃井かおりは「こんな華やかな席に来られるのは10年ぶりで嬉しい。今度は役所(広司)さんとキスする役をやりたい」と上機嫌。(excerpted from サンケイスポーツ 98/2/13)

ショッキング・ピンクの衣装で主演女優賞の桃井かおりさんが現れると割れんばかりの拍手が沸き起こる。「今日の衣装でわかるように、浮かれています。謙虚になることはあまりないけれども(笑)、市川準監督のおかげです。(前回の受賞が9年前なので)これでまた10年後位に獲れたらいいな、と。市川監督にトロフィーを捧げたいと思います」。
桃井さんは、これで3度目の主演女優賞だが、式の後にに伺ったところ「挨拶の仕方を忘れていて、どれだけ賞から遠ざかっていたか、体が教えてくれたわ」「40代はないと思っていたけど、これで50代へ年を重ねるのが楽しみ」と言う。(excerpted from キネマ旬報 98/3/15号)

この日のいでたちは、ショッキング・ピンクのドレスに緑のエスニックのジャケットというあでやかなもの。「一人で浮かれててすいません」。「だってホントすごくうれしくて。年くうと、こんな役できるぞって、感じで。45歳でご褒美もらって泣くよ。ウルウルよ。異常にうれしくて、はしゃいでて、恥ずかしいくらい。前の時(20代30代の受賞)は、ご飯食べる時の”ハイ、いただきます”って感じで、可愛げないって言われてたんですけど。トロフィー片手でもらうようなところあったから」(excerpted from FOCUS 98/2/18号)


1998年 【青い花火】(3部門受賞)

『青い花火』のドラマに放送文化基金賞本賞、演出の若泉久朗さんに演出賞、桃井かおりさんと松尾れい子さんに女優演技賞を差し上げることになりました。私たち審査委員の間でも強く支持されたんです。「感激です。それを聞いたらスタッフがすごく喜ぶと思います」・・・略・・・「現場では、あの女性が人生の一歩をどっちに踏み出すのかということを、スタッフといろんな話をしながらワンカットを大切に撮りました。
・・・(松尾さんが最後にスキンヘッドになるシーンについて)私は、彼女がスキンヘッドになって、おばさんに振り返られたりして、やっと若者っぽく街と共存したんだなって感じましたし。そういう人間と、私ぐらいの歳の都会のコンクリートの中で湿気ちゃってる女の人が出会ったって感じ・・・会ってどうしたってことはないんだけれど、わかり合えなくても会っただけでふっと人生が変わっていくとか。試写のときに、そうか、そういう話だったんだって言いながら乾杯したんですけど。
でも見る人はどうだったんだろうって思ってたんです。そしたら今日(授賞式)のような日があって、作品も賞をいただいて、・・・。視聴者からのアンケートも全部読んだんですけど、びっくりした。私が思っていたのと全く同じことを感じた人もいたり。また全然違う角度からすごくいいテーマで見てる人もいて。ああ、あんなにして作るワケのあった番組だったなって思いました。・・・略・・・「ほんとうにスタッフもキャストもみんなが共犯者でした。年齢もポジションもなくなって、とっても勇気のある現場だったんですよ。」(excerpted from HBC Newspaper No.36[わ] 99/6/18発行.)


2000年 【ミレニアムベストランジェリスト】(日本ボディファッション協会受賞)

ベストランジェリストを選んだのは各メーカーの下着デザイナーの女性たち。最初は「私ってそんなにセクシーだったかしら」と半信半疑だった桃井も、受賞を聞いて「女優賞よりうれしいです」と素直に喜んだという。「これで40代の女性が随分勇気づけられると思います」とさりげなく同世代の女性にエールを送っていた。「トランク4個にいっぱい。恐ろしいくらいの数」の下着を所有しているそうで、その執着心は並ではない。着心地がいいというのが前提だが「パンツのきれいな女と言われたい。交通事故に遭って、いつ見られても大丈夫なようにしています」役柄によって下着も替えている。「弁護士なんかの時は、実はエッチなものを着けています」とドッキリ発言も。(excerpted from デイリースポーツ 00/1/21)

女優、桃井かおりが「ランジェリ-(下着)が最も似合い、ライフスタイルに多方面のシーンを持ち21世紀を素敵に生きる”いい女”」を対象とする。ミレニアムベストランジェリストに輝いた。「私って、そんなにセクシーかなと慌てたけど、生き方をひっくるめて選んでいただき、(映画の)女優賞よりうれしいです」と笑顔を見せた。下着をトランク4杯分も持つほどランジェリー好きで、「エッチなものも好き」だとか。パンツのきれいな女だと思ってもらいたいし、いつ交通事故にあっても見られていい下着を着けているのが私のコンセプト」と自らの”下着哲学”も披露。受賞がよほど嬉しかったのかリップサービスも飛び出すなど、大はしゃぎだった。(excerpted from サンケイスポーツ 00/1/21)

女優の桃井かおりが、下着の似会う有名人に贈られる『ミレニアムベストランジェリスト』を受賞し、セクシーな下着姿を披露した。「女優賞よりも何よりもうれしいわ」と会心の笑み浮かべた。「恐ろしいくらいの数を持っている」という下着マニア。「結構エッチなものも好きで夜中に一人で着るのよ。バカみたいでしょ。おっぱいも引力に負けてきたけど私は今の体が一番好きよ」とセクシーギャグを連発し会場を沸かせていた。(excerpted from スポーツ報知 00/1/21)


2004年 【第15回日本ジュエリーベストドレッサー賞】(日本ジュエリー協会他)

宝石の似合う著名人を選ぶ『第15回日本ジュエリーベストドレッサー賞』の表彰式が21日東京・有明のビッグサイトで行われた。90年から毎年開催されている。10代部門後藤真希、20代部門伊藤美咲、30代部門水野真紀、40代部門黒木瞳、50代部門桃井かおり、60代部門十朱幸代、男性部門坂口憲ニが受賞。
「業界の中では男に貢がせないで自前で買ったのでは桃井が一番ダイヤ持ってると思うんですけど」

「今見たら15回ということは、あたし30年間くらいこの業界にいるのにどうして呼ばれなかったのという、失礼じゃないのあなたたちっていう」
会場から笑いが起こりながら、Vサインでご機嫌の様子。(excerpted from TV:ジャスト 04/1/22)

「私は120歳くらいまで生きるつもりなので、70歳以上の賞も必要よ」(excerpted from 読売HP 04/1/22)

四方義朗氏によるファッションチェック。様々なイベントの中、今週最も輝いていたのは『日本ジュエリーベストドレッサー賞』に輝いた40代、50代、60代。三人の美しさを強調!
「やっぱり自分で働いて、よりも、転がってくるダイヤってなんか美しいなっていう感じですよね
(excerpted from TV:ジャスト 04/1/27)

「いつか結婚する男に買ってもらおうと40代まで我慢していましたが、誰もくれないので自分で買ってます」(excerpted from 週刊女性 04/2/10号)



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